バナウェを出発して、マニラ方面に向います。
マニラ方面に向いつつ、三叉路を右折して「キアンガン」という町を目指します。
キアンガンは、第二次世界大戦時に(日本人の感覚だと、終わったあとですが)日本の山下奉文将軍が降伏した場所です。
マニラからバギオへ、バギオをおわれ転々としてキアンガンにたどりついたようです。
キアンガンの町で、地元の方にきき、最初にたどりついたのが「Kiangan War Memorial Shrine」でした。
フィリピンとアメリカが、なかよしでした。
再度、何人かの方にきいてたどりついたのが、学校でした。
それにしても「Yamashita Surrender Site」ときくのに、勇気がいりました。
堂々としていればよいのでしょうが、躊躇する感情は何だったのでしょう?
みなさん、親切に教えていただき、感謝です。
大きな校舎とは対照的に、小さな小屋がありました。
そこにいらした方曰く「土曜日だから、お休みなんだ」ということで、中には入れませんでした(ノ_・。)
山下奉文将軍が、アメリカ軍に降伏したのが1945年9月2日の朝と、書いてありました。
玉音放送が流れ、第二次世界大戦が終結したのが1945年8月15日です(日本の認識)。
そして、1945年9月2日は、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリにおいて、日本と、連合国(最高司令官:マッカーサー)が降伏文書に署名した日でもあります。
(この日を、戦争の終結日、または、日本に勝った日と認識している国は多いようです。)
終戦しても、なお、半月にわたり、異国のフィリピンで戦っていたと思うと、切ないです。
降伏した翌日、1945年9月3日山下奉文将軍は、バギオに連行され、バギオで降伏調印式にのぞみました。
交渉役の尽力もあって「無条件降伏」ではなく「条件付き停戦」にこぎつけたそうです。(「山下奉文 昭和の悲劇」福田和也氏著参照)
最後の最後まで男気みせました。
ひととおり、見学して、学校の斜め前にある小さなお店でお水を買おうとした売っておらず(ノ_・。)
そうしたところ、お店のご婦人が「ペットボトルなどがあれば、うちでお水をくんでいっていいよ」と言ってくれまして。
お言葉に甘え、おうちにお邪魔させてもらいました。
アクアクララのような水のタンクがあって、それが空っぽでして。
ご婦人が「何で誰も水変えないのよー」と全身で嘆きました。
何がなんでもそこで水の補給をしなければ!という状況ではなかったので、お礼を言ってキアンガンをあとにしました。
「反日感情が強かったらどうしよう」と気にはなっていたので、親切に接してもらえ嬉しかったです。
きた道を戻り、今後は三叉路をマニラ方面へ。
レンタルバイクで、マニラ方面を目指します。
途中で日本語の碑を見かけたので、立ち止まり。
「戦車撃滅隊終焉之地」
ここで、戦車隊が撃滅したのでしょう。
民家でしたので、声をかけ、ご冥福を祈らせていただきました。
お礼をいったときに「どーも」と返ってきたので、日系の方(日本人)なのかもしれません。
どんなご縁なのか、きいてよいものかもわからず、言葉もみつからず、立ち去ってきました。
2015年8月6日の広島の平和式典に、はじめてフィリピンの方が参列してくれたと報道で知りました。
歴史の経緯があるのに、足を運んでいただき、また、それを報道してくれる方がいて(小さくではありましたが)、ありがたい気持ちになりました。
2015年7月11日
コメント
私もこの春オートバイで、バナウエー ボントック周辺を走り回りましたが、こんなところに山下将軍の降伏の地があるとは、知りませんでした。
年末に再度訪問する予定ですので、キアンガンの街を訪れてみます。
ただ私が感じたのは、ボントックから、バギオにかけての、山岳地帯をアメリカ軍とフイリピンゲリラに
追われて、亡くなられた方々は本当に気の毒と思います。
何にも知らない、日本軍の下級兵士の方々が、特に命をなくされたのではないでしょうか。
機会があれば、インパール作戦の地も訪れてみたいと思っています。
できれば、ミャンマーから、コヒマを目指したい。